工場の夢
R8.01/30 Kelnica     ※書いたのは去年です。一部手直ししました。

起きて時計を見ると、夕方の4時だった。
俺はまた横になった。天井の模様が気になる。

昨日、雪が降った。
昨日の雪でアリンコのアリ太郎さんが死んだらしい。
俺の、生まれて初めて触った虫がアリであるからにして、心底かなしかった。ええ、まことに。

俺はアリの死体を見に、工場に行った。32年前、廃墟になった工場だ。
俺は廊下を歩いていた。歩くたびに床が揺れて「ボーンボーン」と鳴るので、酔って頭が痛くなってしまった。
しゃがんで休憩していると、暗くて見えない廊下の奥からおっさんが歩いてきた。
おっさんは廊下を歩いていた。銀縁眼鏡の、作業着姿の。
止まった。俺の真ん前、半径40センチ、俺の顔を見ている。
おっさんは独特な匂いがした。工場の廃棄物みたいな匂いだ。昔ここで働いていたのだろうか。こんな匂いになってしまうまでに。



「ワタシ、きっともうすぐ死にますから」
おっさんは言った。相も変わらず、俺の顔を見て、俺の目に穴でも開けたいのかというような、「どきっ」とする目つきで。
それなのにどこか優しげで。
俺を見ていた。
俺はこのおっさんが何を言いたいのかよくわからないので、「死なないほうが、いいかもしれないよ。」と言ってみせた。
「いやァ、仕方ないさ。ワタシが自分で決めたことでして。」
おっさんはそう言うと、ンフフと笑った。
俺が「やめたほうがいいと思うよ」と言いかけるうちに、おっさんは左胸のポケットからなんだかよくわからない薬を取り出して、飲み込んでいた。
おっさんはこれから死ぬというのに「あんた優しいな。一杯やりましょうよ」と言って、工場の出口に向かって歩き出した。
歩いているうちに、どんな女が好きだとか、金持ちだったら何したいだとか、そんな話で仲良くなった。そのうち、俺はおっさんがもうすぐ死ぬことも薬を飲んだことも忘れた。

町外れの居酒屋に着くと、早々におっさんは3杯も頼んた。俺は酒が飲めないので、お茶を頼んだ。
ちまちまと飲みながら政治家の悪口やらどこに旅行したいやら色々と話していた。
俺が「電話番号交換しませんか」と携帯電話を鞄から探して前を向くと、おっさんは椅子の背に寄りかかって寝ていた。
飲みかけのが、倒れてこぼれていた。
意外と早く酔ったな、このおっさんと思った。
仕方がないから、おっさんを担いで帰ることにした。
背負うつもりだったが、重くて無理だった。脇の下から持ち上げて、俺は寒い中顔真っ赤にしてまっしろけの息をしながら家まで歩いた。

しかし、俺のようなひょろいチビが大人一人担いで歩けるわけもない。
少し休みたかった。雪の上に座りこんだ。
夜になってしまった。俺の手は既にしもやけだらけになっていた。
静まりかえった真っ暗闇で、積もった雪だけが月の光を反射してほんのり明るくなっている。

俺は嫌な予感がした。不安になった。死んでしまいそうだった。
おっさんは息をしなくなった。
本当に、死んだ。俺は一気に「きっともうすぐ死にますから」という言葉を思い出した。
まだ温かい死体を雪が踏んづけるのを必死に手で払って、俺はまたおっさんを担いで家に向かった。

やっとの思いで家に着いた。
いつの間にか、死体が消えていた。どこかで落とすわけがないのに、きれいさっぱり、おっさんがいた証のなにもかも消えてしまった。
雪に濡れた服を脱ぐと、一粒薬だけが出てきた。それしかなかった。
次の日、あの居酒屋に行ってもだれもおっさんを覚えていなかった。

帰ってテレビをつけると、ニュースがやっていた。
「1993年1月、○×工業の社内にて人権侵害を苦にして当時39歳の従業員Yさんが自害した事件について、被害者の家族に話を伺うことが……」
遺影に写っていたのはあのおっさんだった。

死んでいた。

俺は横になった。天井の模様が、また気になった。


おしまい